「誰か」のためより「自分」のため。自分で責任を持つ生き方

誰かのために頑張るって素敵ですよね。

自分のために行動するよりも、誰かのために行動するほうが美しいイメージがあります。

これは儒教精神の「忠孝」であったり、様々な宗教で重要視されている「自己犠牲」による影響が大きいのではないでしょうか。

ただし、一見美しいように見える誰かの「ため」の行動も、何かの拍子で誰かの「せい」になってしまうことがあります。

今回は、「誰か」のためより「自分」のために生きることについてです。

「忠孝」と「自己犠牲」

誰かのためにの根底にある2つの価値観について触れておきます。

忠孝

仕えている主に対する忠義と、親に対する孝行を結合して説かれた道徳思想です。

忠臣蔵で家臣が主のために自分たちの命を犠牲にして敵討ちをすることが美徳とされるように、主に対して尽くすという徳目です。

自己犠牲

様々な宗教で重視されている価値観です。

法華経では、自分の利益を犠牲にして他人の利益を図る『利他心』は尊いものとされています。

キリスト教では、キリストが人類の罪を身代わりに受けるために十字架に架かったとして、自己犠牲は愛だとされています。

映画「アルマゲドン」のラストシーンで、主人公が自分の命を犠牲にして娘の彼氏の命を救ったシーンで涙した人も多いのではないでしょうか。

誰かの「ため」には誰かの「せい」になりがち

「誰かのために」の行動は美徳であるという価値観を私たちは持っています。

実際このような行動は美しいのですが、「誰かのために」が目的になると、いつのまにか「誰かのせい」になってしまっていることがあります。

例えば部下が遅刻したときの指導。

最初は親身に「部下のために」指導していても、何度も遅刻を繰り返されると「その部下がいるせいでイライラする」「その部下がいるせいで部内の風紀が乱れる」といったように、「部下のため」が「部下のせい」になっていることがあります。

根底にあるのは、相手が期待通りに動くことを想定しているのですが、思ったとおりにならなかった場合に裏切られたといった思いから、怒りや失望といった感情が湧いてきます。

相手のために取った行動であったならば、結果がどうあれ自分の感情が乱れることはないはずが、「誰かのため」と考えての行動の多くは親切の押し売りになることが多いです。

自分が何をしたいか

コントロールできるのは自分だけ。

誰かをコントロールすることは不可能です。

コントロールすることができない誰かをコントロールしようとするから、期待通りにならなかったときに裏切られたといった感情が湧いてきます。

そこで大事なのは、自分がどうしたいか、自分の課題は何かということです。

「誰かのために」よりも「自分がどうしたいか」といったように、自分の本当の気持ちや主体性が大事。

遅刻をする部下に対しても、「自分がその部下に遅刻をしないようにしたい」「その部下が遅刻をしないようなマネージメント手法を自分が手に入れたい」「自分がその部下の役に立ちたい」と思えば、そのためのアプローチは無数にあります。

コントロールするのはあくまで自分で、自分がどうしたいかありきです。

「誰かのために」とる行動は美しく期待した結果が得られる場合はお互いがハッピーですが、期待通りにならなければ相手を攻撃することになりかねません。または、期待通りにならない状態が長期間続くと自分自身がストレスを溜め込んでしまいます。

行動のする起点は「誰か」ではなく「自分」です。

まとめ

今回は、「誰か」のためより「自分」のために生きることについてでした。

誰かの「ため」の行動は美しいですが、いつのまにか誰かの「せい」になってしまうことがあります。

そうなると善意から始まった行動が結果としてお互いの不幸になってしまいます。

そうならないためにも、自分がどうしたいかを起点にして行動することで、誰のせいでもない自分の人生が生きられます。

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